社会のシステム化による自由度の低下と生きてる感の関係

2010年7月27日 基礎セミナー「社会科学の名著を読む」

主旨

近・現代的生きづらさの原因の一つを、社会のシステム化による自由度の低下に見出し、社会が実際にシステム化していること・自由度が低下していることを示すとともに、それがどう個人の生きてる感と関わってくるのかということも示す。また、自由度が低下・制限されていく過程で思考も制限され、それが社会(階級)的な問題も孕むことも提示する。そしてそれが生の強度を上げていくことと相反的であり、そのような生き方を実現できるような社会を提案する。

1. システム化と自由度

1.1. システム化とは

『忘れられた日本人』でも触れられていたが、人間社会は、とりわけ近現代は、様々なものを効率化することで発展を見てきた*1。この様々なものが効率化されるなかで、見田宗介のいう集列体*2のように、「非人格的な社会的性格」が強くなってくることをシステム化と呼ぶことにする。社会を成り立たせる機構(=システム)が、具体的機関や組織としてでなく、そういったもの全体の「関係」として独立に存在しているかのように捉えられ、またそのシステムが存続していくために人々が利用されているように見えるような社会の傾向をシステム化というのである。このシステム化を自由度という観点から考えてみたい。

1.2. 自由であること

「主観的に」自由であるとは、1)「選択肢があること」2)「選択する能力があること」であるという*3。注意しなければならないのが、1)の「選択肢があること」には、「選択肢を選ばないでいいという選択肢」も含まれなければならないということである。システム化が進むと、特に2)と1)のうちの「選ばないでいいという選択肢」が相対的に激減することにより自由度が低下し、これが生きてる感の低下や生きづらさに関係していると考えられる。この観点から、社会の実態をもう少し詳しく見ていきたい。

*1宮本常一, 『忘れられた日本人』: 122-124, 「しかしその田植えがここ二、三年次第に能率化せられはじめた」「この制度は女たちの発明であった。と同時に能率を上げれば収入も増えるので」等
*2見田宗介, 『社会学入門』: 16-19
*3宮台真司, 『14歳からの社会学』: 176-178, 「freedom from something, freedom to something」(by fromm), (註:「選択する能力がある」とは「選択肢の十分な知識がある」なども含まれる。)

2. 自由度の低下

2.1. 自由度の低下の要素

「大量生産型」から、「多品種少量生産型」に移行した現代の消費社会*4は、大量の選択肢を提示する。この選択肢の大幅な増加により、先ほど述べた1)の「選択肢があること」への増加へとつながると共に、2)の選ぶ能力の相対的な低下ももたらす。すなわち、過剰の選択肢は自由度を低下させる。何故なら、増加し続ける選択肢に個人の選択能力が追いつけなくなるからだ。これがまず第一の自由度の低下である。簡単に言えば、「選びたいけど、どれを選んでいいのかわからない」という状態だ。そして、もう一つ大事なのが、これらの選択肢は本当に自由な選択肢としてでなく、「これが正しいとされるもの」への見えざる圧力として働くということだ。これが第二の自由度の低下へとつながるのである。すなわち、1)の「選択肢がある」という状態の限定的な低下である。簡単に言えば、「選びたくないものまで選ばざるを得ない」という状態だ。これをうまく言い表しているのが、小沢牧子の『「心の専門家」はいらない』の中にある、「「生かされる消費財」への道」という言葉である*5。この自分ではやりたいと思っていないことを社会(システム)に「やらされてる感」というのが自由度の低下の最大の問題点であり、これが生きてる感の低下につながるのだ。また、この何を選択していいのか分からなかったり、欲望動機が自分にない様はB'zの「ネテモサメテモ」でも歌われている*6。これらが自由度の低下の一つの形態なのである。(そして端的に言えば、そのめくるめく選択肢の波によって頭の回らなくなった消費者の隙に、どんどん消費思想を埋め込むのが現代社会なのだ。)これを具体例でもう少し詳しく見ていこう。

2.2. 具体例

2)の「選択する能力の相対的な低下」としては、ファッション誌がその例として挙げられる。現代社会では当然ファッションにおいても多岐の選択を提示され、その都度選択を迫られる*7。中村桃子は『<性>と日本語』の中で、男性・女性ファッション誌を例にとって、選択する能力の(相対的な)低下を捉えている。男性ファッション誌の場合、そのページぎっしりに「整然と並べられたデニム」を「商品が昆虫の標本のように並んでいる」と評し*8、その多量の選択肢を「攻略」するための面倒を見てくれる「きびしい先輩」あるいは「学校」としてファッション誌が機能していることを指摘している*9。また女性ファッション誌の場合、「ファッション」=「課題」とし、それを「克服」するために数多ある「女の身体をつくりつづける技術」を提供し、導いてくれる「やさしいお姉さん」あるいは「カウンセラー」として機能していることを指摘している*10*11。 つまり、多岐にわたる選択肢を提示し、何を選んでいいのかわからなくなった消費者(これが「選択する能力の相対的な低下」)の悩みを埋めるようにファッション誌が機能していることを指摘している*12。
また、1)の「選択しないという自由度の低下」に関して言えば、「自己実現」や「夢」という言葉が挙げられるだろう。本来、内発的、あるいはせめて自発的*13な欲求意識として表象される言葉が、今日では「学校教育」その他さまざまな形で、人々に、社会に「求められるもの」として機能している。この指摘は先の『「心の専門家」はいらない』: 36, 35の中にも、「個々人の自己開発を求める生涯学習路線も、意欲・関心・態度を最重視する学校教育も、「みずから決めよ、ただし望まれるように」という新たな管理の流れのなかにある」「審査基準をさぐらせそれを内在化させる、姿を見せない圧力である」のような形で表れている。また、この「エセ自己実現」や「夢」という言葉の胡散臭さを歌っているのがRADWIMPSで、「夢番地」や「バグッバイ」では、永遠に自己開発を進める無顧慮な態度(あるいはそう求めてくる社会)に対して疑問を呈したり、立ち止まってもうすでに自分がかなえてきたいくつかのことにも目を向けようと歌っている*14。
これらは与えられた選択肢以外選択できないという人間を増やすと共に、その「消費財」としての選択性(選ばされている感)に気づいている人もその選択ゲームから抜け出せなくなるという危険性を孕んでいる。しかもこれが「外圧」として個人の価値観にまで進入してくるのである(究極的には「内圧」化。次項参照)。これが真の問題としての自由度の低下だ。私はこれを自由度の低下の問題の主軸として位置づけたい。
次項では、システム化の構造という軸を中心にしながらも、自由度と生きづらさとの関係についても見ていきたい。

*4宮台真司, MIYADAI.com Blog, 「米国での学会用の英語配付資料の日本語版」に続く「(上にアップロードしたものの続き[容量限界ゆえ]」(http://www.miyadai.com/index.php?query=%E3%83%98%E3%83%8A%E3%83%98%E3%83%8A&amount=0&blogid=1)
*5小沢牧子, 『「心の専門家」はいらない』: 39, 53
*6B'z, 「ネテモサメテモ」, 「弱気になったとこに はっきり言われるぜ 「いやだったらコレを買いなさい」」「だれかのものばっか 欲しくなるよな そんな寂しげな回路なんて とりはずせたら 晴れ晴れ 笑える Days」
*7たとえば昭和初期までは、服装は階級を意味しており、選択の余地はなかった。(インタビューによる)
*8中村桃子, 『<性>と日本語』: 204-205
*9中村桃子, 『<性>と日本語』: 197, 205
*10中村桃子, 『<性>と日本語』: 197-198
*11ただし、実際には同著に書かれているほど消極的、あるいは臆病な態度でファッション誌を読んでいる若者は多数派ではない。しかし、同著が述べるイデオロギーによる権力構造の醸成過程は十分に論理的で説得力があるし、後に述べる消費思想の内在化という問題を考えるには、こういった角度で捉えることには意味があるので、ここでなされているような表現にはここではひとまず問題がないものとする。
*12正確には、消費欲求対象をファッションに向かわせるために、積極的に言語資源を利用し、「雑誌共同体」という消費価値形態を創造することを指摘している。中村桃子, 『<性>と日本語』: 第六章-1
*13「自発的」とは、別に誰かに強制はされないが損得勘定や他人の目等により、周りの状況を汲んで自ら行動しようとする様。「内発的」とは、外部からの刺激などではなく、自らの内部からわき上がる力によって行動しようとする様。『14歳からの社会学』『精選版 日本国語大辞典』
*14RADWIMPS, 「夢番地」, 「昨日に夢を託せば後悔で 明日に夢を託せば希望で でも今日の僕に夢を託して何になるの?だから うずくまって 閉じこもって 明日を待っていたんだよ だけどなんで 明日になってみれば今日がまた 始まるの?」「「現状に甘んずること勿れ」と 言われても僕は笑えないよ だって「今」のこの僕が 誰かの夢見る未来 叶えたい夢ばかり数えて 叶えた夢は泣きながらきっとどこかへ… 「僕はきっと今いつかの夢の上に立っているんだね 僕はきっと今誰かの夢の上に立っている」」
「バグッバイ」, 「近すぎて見えない誰か 誤って「僕」と呼ぶ この声の正体は誰なの? 遠すぎて見えてる誰か 誤って「神」と呼ぶ その顔にホクロはあるのかい? 仕方なくもらった命 誤って「愛」と呼ぶ そうしとけば問題はないけど 「どうせなら」と見つけた意味を 誤って「夢」と呼ぶ 本当はそんなんじゃないはず」

3. システム化の構造と『一九八四年』世界との比較

システム化の考えを拡張して、「1.で定義したシステム化」に向かっていく流れ全体もシステム化であるとすると、システム化は三つの段階で起きていると捉えられる(これを第一次、第二次、第三次システム化と呼ぶことにする)。特に1.で定義したシステム化は第二次システム化にあたる。

3.1. 第一次システム化

第一次システム化とは、先ほどあげた「多量の選択肢」問題などによって選択を強要されたり、「個人化」*15によって行動の責任を「個」に求められたり*16、競争原理や価値比較*17や流動化による安心できる関係の喪失*18など、人間にとって過酷なはずの「システム化の流儀」がそれでも否応なしに人々に浸透していく段階である。
人々は一般にここで、それが社会的な問題になるにせよ個人的なもので終わるにせよ、様々な問題や悩みを抱える。宮台の『この世からきらい消えたい。』で描かれた成熟社会でのSの苦悩や、「期待値」「願望値」問題*19、「セカイ系」「バトルロワイヤル系」*20というのも、それに対応するための人間の一つの反応なのである。

3.2. 第二次システム化──内圧化(システムのシステム化)

第二次システム化とは、第一次システム化による「システム化の流儀」が個人の価値観に内面化する段階である。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』では、中流階級の党員は、テレスクリーンによって党にとって危険な行動を取らないかどうか監視され、もし取ったらそれを処罰するといった「外圧」による支配の面と、その帰結としてか、それが既に人々の思想に内面化し、自らその党の思想を忠実に体現するといった「内圧」化された思想という世界も描かれていた。この「内圧化」が第二次システム化では起こる。2.1で述べたような「これが正しいとされるもの」というようなものが、個人に内面化することで「正しいとされるもの」ではなく本当に「正しいもの」になってしまうということだ。そして、いつしかこれが進展するうちに、これについて自由に言及すること自体が無言の圧力によりできなくなっていく。これがまた、とてつもない自由度の低下の一つなのだ。
しかもこのように、「内圧化」(内面化)とは価値観が「前提」化することだから、言及することが少なくなったその価値が「前提化」することによって、ますます人々が言及することが少なくなり、より強固な「前提」となっていくという、イデオロギー支配の強力な再帰構造がある*21。第二次システム化は、システムがシステム自身を保つような保存力として働いているという意味で「システムのシステム化」とも呼べるし、また、この再帰的な前提化によってシステムがより強力なシステムとなっていくことから「再帰的システム化」とも呼べる。しかも、現社会は『一九八四年』の世界と違い、目に見えた「外圧」を一切使わずに価値観を内面化したという点で、人々が気づきにくいとともに、より強力なイデオロギーになったと考えられる。

3.3. 第三次システム化──思考性の制限

第三次システム化とは実際に起こっていることではなく危惧としての段階である。ここをまず注意して欲しい。第二次システム化の究極的な成れの果てとして、『一九八四年』世界のような、一部の全貌を知ってる支配層が、考えることができなくなったプロール(大多数)を支配するような世界、これが危惧としての第三次システム化である。これは第二次システム化によって、言及すること、すなわち思考することをしなくなった(あるいはまだちゃんと意識を持っていたのに、システム化の流れでできなくなったような人もいる)ことによって、大衆が、一部の思考することを社会的に(システム的に)許されたエリート層に支配されるという、階級的支配構造への危惧である。

*15柏木恵子, 『子どもが育つ条件』: 15
*16『反貧困』:15-17, 第三章,「自己責任論」問題
*17柏木恵子, 『子供が育つ条件』:140, 「今日では、家族間であっても、自分が相手にしていることと自分が相手からされていること(受け取っていること)のバランスが衡平に保たれているか否かに注意が向けられるようになっています」「自分の方が相手から受け取っているものが少ない、すなわち過小利得だと感じると、結婚に対する満足度は低下します」, これは家族間や夫婦間だけでなく人間関係一般に言える。
*18小沢牧子, 『「心の専門家」はいらない』: 30, 「同年輩の友人たちがいないわけでもない。ただ、信頼し相談できる関係が揺らいでいるのだ」「個々に競争させられ値踏みされ、おたがいに臆病になっている」
*19宮台真司, 『14歳からの社会学』: 79-81
*20宮台真司, MIYADAI.com Blog, 「米国での学会用の英語配付資料の日本語版」に続く「(上にアップロードしたものの続き[容量限界ゆえ]」(http://www.miyadai.com/index.php?query=%E3%83%98%E3%83%8A%E3%83%98%E3%83%8A&amount=0&blogid=1)
*21中村桃子, 『<性>と日本語』: 191-192, 「ここで、非常に興味深いのは、雑誌は特定の価値観を直接述べることが少ないという点である。「大人の顔が良い」とは直接言わずに、「巻くだけでソク大人の顔に!」ということで、「大人の顔が良い」という価値観を、このキャプションを理解するための前提にしてしまっている」

4. 生の強度という対抗策

「生の強度」とは「生の濃密さ」ともパラフレーズできる。簡単に言えば「生きてる感の実感」である。これを取り戻すことは、今まで述べてきたことと相反的であることは自明である。ということは、「生きてる感」とは物事に付随する「思考性」(思考する余地)であり、「言及すること」であり、「一つの決まった社会の役割や価値に固定されない」ことである。
「思考性」や「言及すること」とは「相対化すること」でもあり、相対化とはどんな確かな正義もどんな大きな権威も消し去る力があるのだ*22。だから、逆に3.2で見たように、これらが行われなくなると急激に正義や権威(どちらもある種のコードとしての価値と見なせる)が生まれるのだ。そのためには、姜尚中が、漱石が持っていたとする「資本主義との距離感」*23や「自分を問いただす態度」というものを持つことが大事だ。
また、「一つの決まった社会の役割や価値に固定されない」ということは「複数の役割を担うこと」だが、この重要性は柏木も指摘している*24。そして「思考性」を持つことや、これらのことを実行するには「個人の意識」(それが全体として「民度」となる)というのがやはり大切である。
ではこれらを実践するためには、我々はどういった意識を持てばいいのだろうか。私は姜尚中が『悩む力』で言っている、「「時代を引き受けてやろう」という覚悟*25」が必用なのではないかと思う。何故なら、これは主体として社会に関わりを持つという態度であり、また漱石とウェーバーだけでなく、上で述べたようなことを実践している、B'zの稲葉浩志、宮台真司などの歌詞や文章にもそういった態度がにじみ出ているからだ。彼らの共通点はそこにある。そしてその覚悟を持つために必用な経験として次の言葉をヒントにしたい。
一体人間は、二つの魂の誕生をもっているといえよう。世界がこんなに美しく、世の中がこんなに面白いものかと驚嘆する時がある。これが第一の誕生である。そしていつか、それとまったく反対に、人間がこんなに愚劣であったのか、また自分も、こんなに下らないものだったのかと驚嘆し、驚きはてる時がくる。これが第二の、魂の誕生なのである。しかし、この時、人々は、ほんとうの人生を知ったというべきであろう。『美学入門』(中井正一)『一日一文 英知のことば』
この両極端に見える感動と絶望は表裏一体のもので、上の「「時代を引き受けてやろう」という覚悟」というものを本当に実感するためには、この二つの感情を体験すること──自己の内的世界が外的世界を覆うような感覚を強烈なリアリティーを以て体験し、また同等のリアリティーを以て自己の内的世界は外的世界に包括される形で存在するのだということを体験すること──がおそらく絶対に必要なのだ。何故ならこれが、自分は社会の中で「何か」をできる存在なのだという自覚とともに、しかし同時に自分は社会に包含される一分子でしかないという、「セカイ系」などに陥らない戒めの態度、客観的な態度、延いては自己を見つめる態度につながるからだ。そして、この体験を与えるのは、宮台の言う「感染」*26をともなった「生のスリリング」な苦悩と喜びを体験すること、そしてそれを共有する仲間を見つけることである。こうした体験ができるような意識を持つこと(延いてはそういった環境を育てること)、あるいはそういった体験を積極的に求めることを提案したい。

*22宮台真司, MIYADAI.com Blog, 「米国での学会用の英語配付資料の日本語版」に続く「(上にアップロードしたものの続き[容量限界ゆえ]」(http://www.miyadai.com/index.php?query=%E3%83%98%E3%83%8A%E3%83%98%E3%83%8A&amount=0&blogid=1), 「社会学の思考伝統は、「前提を遡ること」や「文脈を参照すること」によって、自明性を突き崩すところにあります。前提のそのまた前提のそのまた前提…。文脈のそのまた文脈のそのまた文脈…。遡及すればするほど、不動の枠組がヘナヘナになって、確かな正義も大きな権威も消えてしまう――。社会学の分析には、そうした「再帰性による相対化(relativization through reflexion」の機能があります」
*23姜尚中, 『悩む力』: 61
*24柏木恵子, 『子どもが育つ条件』: 200
*25姜尚中, 『悩む力』: 18, 漱石とウェーバーの共通の態度として記述されている。
*26宮台真司, 『14歳からの社会学』: 134-140, 190-192

参考文献

宮本常一, 1984, 『忘れられた日本人』岩波文庫
宮台真司, 2008, 『14歳からの社会学』, 世界文化社
宮台真司, 2009, MIYADAI.com Blog, 「米国での学会用の英語配付資料の日本語版」「(上にアップロードしたものの続き[容量限界ゆえ]」(http://www.miyadai.com/index.php?query=%E3%83%98%E3%83%8A%E3%83%98%E3%83%8A&amount=0&blogid=1, 2010.07.24)
小沢牧子, 2002, 『「心の専門家」はいらない』洋泉社
B'z, KOSHI INABA, 2006, 『MONSTER』「ネテモサメテモ」VERMILLION RECORDS, Inc.
中村桃子, 2007, 『<性>と日本語──ことばがつくる女と男』NHKブックス
RADWIMPS, 野田洋次郎, 2006, 『RADWIMPS 4 〜おかずのごはん〜』「夢番地」「バグッバイ」EMIミュージック・ジャパン
見田宗介, 2006, 『社会学入門』岩波新書
柏木恵子, 2008, 『子供が育つ条件』岩波新書
湯浅誠, 2008, 『反貧困』岩波新書
ジョージ・オーウェル, 2009, 『一九八四年』ハヤカワepi文庫
姜尚中, 2008, 『悩む力』集英社新書
木田元, 2003, 『一日一文 英知のことば』岩波書店

(追記:2010-12-24)課題が提出ギリギリだったので、第4章がテキトーになっています。

2010-12-23